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小笠原諸島父島散策 ~小笠原神社にある石碑やトーチカについて~

 こんにちは。

先日、小笠原神社と、扇浦園地について紹介しました。
今日は小笠原神社敷地内(参道横)にある、石碑たトーチカについて紹介します。

先日の記事はこちら↓



【目次】

1.小笠原開拓碑

2.にほへ碑

3.トーチカ跡

4.無人島発見之碑

5.アクセスについて(小笠原神社)


1.小笠原開拓碑

1.小笠原開拓碑


小笠原神社の鳥居をくぐり、一番初めに目にするのが「小笠原開拓碑(おがさわらかいたくのひ)」。
大きな石碑が立派な台座に乗っているので、高さ229㎝もある大きなものです。
明治時代にはいり、政府は本格的な開拓を始めました。その開拓に際し建立された石碑で、東京都の文化財に指定されています。江戸から明治にかけての小笠原の開拓の歴史を知るうえで貴重な資料です。

隣にある東京都教育委員会の解説文。
明治10年に東京で建立されたこと、書は明治の著名な書家である日下部東作によるもの等の石碑自体についてのことと、小笠原貞頼による小笠原諸島の発見、江戸幕府による調査団のことなど石碑の内容について書かれています。


2.にほへ碑

2.にほへ碑

小笠原開拓碑の次に目にするのが、この「にほへ碑」だと思います。

・碑文後ろの説明より
江戸時代に、八丈島から小笠原に移住した農民30人のうち、8人は子供でした。
その子供たちに、幕府の役人 原又吉は読み書き手習いを教えました。この碑は、使い終えた筆を供養するための筆塚として、文久2年の冬に建てられたとあります。
文久3年5月に、幕府は国内外事情により、開拓を中断、役人や開拓島民は引き上げました。
その後、明治期に再び開拓がはじまり、いつの頃からか倒れていた「にほへ碑」を村民が立て直した記録があります。

江戸時代末期に、今よりもはるかに遠かったであろう小笠原諸島で、寺子屋教育がされたというのに驚きです。
また、筆塚を作って供養するところに、ものに対する謙虚さ(と信仰心)を感じます。

しかし、「いろはにほへと」の「いろは」ではなく、「にほへ」を採用したのには何か理由があるのでしょうかね。


3.トーチカ跡

3.トーチカ跡

小高い場所や、海の要所になりそうなところに、あちこち残っている「トーチカ跡」。
扇浦の小笠原神社境内にも残っています。

こちら、トーチカの銃眼が開いているのがわかります。
隣の小さな立て看板に、トーチカの説明と「中へ入れますが、足元が暗いので充分気を付けてください」と書いてあり、『この穴から中に入るの???』と思ったすだち。
どう考えても、奈良の大仏殿の柱に開いている、大仏様の鼻の穴サイズの穴より小さい。

私でも無理なのに、当時兵士の人はどうやって入ったんだ?と思いながら数歩歩くと、答えが。
トーチカの銃眼用の穴(右)と出入口(左)
右端にトーチカの銃眼の穴、左に出入り用の穴が、別々に開けられていました。
なーんだびっくりした。



4.無人島発見之碑

4.無人島発見之碑

小笠原神社の本殿を左に過ぎると、「無人島発見之碑」があります。
左右のパネルは、江戸時代に知られていた小笠原諸島の地図。
二見湾がちゃんとあったり、雰囲気は出てますね。
南に描いてあるのは母島??

こちらは、江戸から小笠原までの島々が書かれています。
天明5年(1785年)にちゃんと、距離まで測っているところがすごいです。
下田~八丈島が64里、八丈島~小笠原諸島まで200余里とあります。
ちなみにYshoo地図上で距離を測ったら、伊豆半島の下田~八丈島は186km、八丈島~父島は700kmありました。
さすがに今の距離にピッタリとはいかないですね。

真ん中は、小笠原貞頼さんが、どうして南に島探しに出かけたのかについてメインで書かれています。

朝鮮出兵の際に、島を見つけたら自分の領地にしてよいと言われたから、南の海へ島探しに出かけたと書いてあります。
朝鮮出兵1回目の文禄の役が1592年に始まり、1593年4月休戦協定。
休戦後に日本に帰ってきて、そこから南へ島を探しにいって、1593年7月に発見。
なかなかタイトなスケジュールです。
まさか休戦前に勝手に抜けて、探しに行けないでしょう。
あくまでも、もし「本当なら」ですが。

ただ、、、この伝説が無かったら小笠原はもしかしたら日本の領土ではなかったかもしれませんね。

5.アクセス

5.アクセス

扇浦園地および小笠原神社へのアクセス
・住所 〒100-2101 東京都小笠原村父島字扇浦
・村営バス(扇浦線 扇浦海岸下車徒歩すぐ)
・駐車場 あり
・トイレ あり(扇浦海岸のトイレ)
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本日は以上です。
ここまで読んでいただきありがとうございました。

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